ブログ訪問ありがとうございます♪
40代の2人の子供を持つ母親、こころです。
人付き合いは苦手、真面目すぎて頑張りすぎてしまうのが欠点でもあり、長所でもあったりします^^
1つの事にはまると他の事が見えなくなってしまう、子供のような性格です。
恥ずかしい話、自分自身うつになるまでは、偏見がありました。
メンタルクリニックに通うようになり、症状が軽いうつと言っても、
いつ来るかわからないうつの波や不安に戸惑う事もしばしばあります。
うつになり、健康に当たり前に過ごしいた日常生活の中で、見えなかったもの、
人の心や優しさや思いやり、自分がどれだけわがままで、
恵まれているのかということに気が付きました。
うつになったのは辛いけれど40代という節目を向かえて、
今までの生き方を変えるチャンス♪と思い、うつ完治を目指し日々を過ごしています。
4●年間の長い長いプロフィールです。
(本当に長いので、興味のない方はスルーしてください^^)
真面目で頑固な父親と、真面目の母親との間に4●数年前に長女として生まれました。
親の言う事を聞くおとなしい子で、人前に出るといつも母親の後ろに隠れていました。
兄弟は、3つ下の弟と、8つ下の妹がいる3人きょうだいで育ちました。
私が生まれる前、母親は2人の赤ちゃんを流産していたため、両親に大切に育てられました。
ミルクもたくさん飲み、好き嫌いもなく、すくすくと成長。
栄養のとり過ぎで、まるまる太ってました(汗…
幼稚園に上がる前は、近所の男の子と戦隊ヒーローごっこをするのが大好き。
女の子よりも男の子と一緒に遊ぶのが好き♪という活発な女の子でした。
この頃は人付き合いとか、全然気にしないで、自分の思うまま生きていたような気がします。
幼稚園に入ってからは、集団行動が苦手で、お友達の中に入っていくことができませんでした。
幼稚園では、園庭の隅でひとりで遊ぶか、誰もいないガラガラの教室の中で、
お絵かきをして遊ぶのが好き。
1人でもくもくと絵を書くことが好きなので、さみしいという気持ちもなかったし、
教室で1人でいると、園庭から先生とお友達に声をかけられて、しぶしぶ中に入っていく感じでした。
友達と遊ぶのは楽しいけれど、無理して入ろうとはしない、
今から考えてもとっても消極的な女の子でした。
母親が大切にとっておいてくれた、幼稚園時代のおたより帳です。

小学校に入っても、お友達の中に入っていくことかできず、学校は大嫌い。
転向してきた気の強い男の子にイジメのターゲットにされてしまったこと。
学校ではほとんどしゃべらないので、家ではたくさんおしゃべりするので、変わったやつと、クラスの子たちは不思議がって、からかわれてイジメの対象になったり…。
何かやられても怖くてなんにも言えず、嫌なことを言われても、
やられても、黙って自分の気持ちを押し殺していました。
別に1人でもつまらなくないもん。私は1人が好きだもん。と、
自分に暗示をかけていたような気がします。
そんなつまらない小学校生活だったけれど、一番の楽しみは大好きな祖母に会いに行くこと。
おばあちゃんにとって長女の初めての子どもだったので、私の事をとても可愛がってくれました。
弟も生まれて甘えられない私にとって、いつも笑顔でやさしく唯一甘えられる存在。
私が祖母の家で絵をかけば、居間の壁に私が書いた絵をはりまくり、
「上手だね♪近所の遊びにきた子どもも、●●ちゃんの絵を褒めていたよ♪」と自慢に話してくれてました。
辛いことがあっても、悲しいことがあっても、祖母の家に行けば癒される、そんな心地よい居場所でした。
学校の帰り道、登下校班のみんなに仲間外れにされたり、
一緒に帰ってもらえなかったり、辛いこともあったけれど、祖母の存在が救いでした。
そんなある日、祖母ががんになって入院。
30年前は、がんの治療が発達していなくて、がんと言えば不治の病です。真冬の寒い日に、電車に揺られながら祖母のお見舞いに行ったことを覚えています。当時母親に買ってもらった、真っ赤なロングブーツを履いて行きました。
「●●ちゃん、とってもかわいいブーツだね」と褒めてもらったのが、
生きている祖母と交わした最後の言葉になりました。
祖母が亡くなり、唯一の心地よい場所もなくなりました。
私も小学校3年生になり、ますますイジメは悪化。
新米の女の先生が担任だったので、生意気盛りの男の子が全然いう事を聞かず、
先生のいないときは、まさにイジメの時間。
クラスの友達も私を助けるとイジメのターゲットになると思い、見て見ぬふり。
体格の良い男の子は、私の両足を持ち、ぶんぶん振り回して、机に向かって投げ飛ばしたり、
雑巾がけをしているときに、上履きのまま顔を足蹴りされ、顔にあざを作ったり…
やんちゃな男の子たちのやりたい放題でした。
いじめられて、家に帰ると母親は私の顔にできたあざをみて、見てびっくりし、
学校に苦情の電話をかけることも少なくなかったです。
この頃死にたい、死んでいじめっこを呪い殺すんだ、みたいなことを真剣に考えてました。
その時母親に言われた言葉がひとつ、
「死ぬ勇気があるなら、なんでもできるでしょ。死ぬって怖いことなのよ」と、言われたこと。
8つか9つの子どもの頭でも、いじめっこのために死ぬなんてもったいない。何をされても我慢すればいい、悪いことをしたやつらには必ず罰があたる。私は私でいいじゃない、と思うようになりました。
そんな時にいつも助けてくれたのは、隣のクラスにいた近所のお友達です。
何も言えない私を、いつもかばってくれて、とっても嬉しかったです^^
小学校低学年の頃から、自分が大嫌いでした。なんで自分が生まれてきたんだろう…。
家に帰れば、可愛い弟と妹がいるけれど、母親は兄弟ばかりかまって、自分の方は見てくれない。
そのころから常にいい子でいれば、親の愛情も独り占めできると思ってました。
嫌なことも嫌といえず、ひたすら我慢。
小学校の高学年になると、仲良しのお友達も増え、ベテランの先生に変わったおかげでイジメもなくなり、学校生活も少しずつ楽しくなりました。
この頃に感じたのは、自分の容姿に対するコンプレックス。
今振り返ってみると、いつも自信がなくて、泣きそうな顔をしていて、情緒が不安定。
家に帰って年下の近所のお友達と遊んでいるときは楽しいけれど、
同じ年頃のお友達と自分を比較して、いつも自己嫌悪してました。
中学校になって、高校生になっても、自分に彼氏ができないのは、
容姿が醜いのは、親のせいと思ってました。
社会人になって自分が変わってきた
高校時代は緊張して男の子とも話せなかったのに、専門学校、社会人になって、自分のコンプレックスもなくなり、友達も増えてきました。今一番の親友に出会ったのも、この時です。
小さなころからの夢を実現するため、親元を離れて専門学校に行き、無事就職。
好きな人もできて、休みの日には中の良い友達と食べ歩きをしたり、
青春していたな~っと思うのがこの頃です。
でも、幸せって長くは続かないんですね。
新しくやってきた上司との人間関係から、ストレスがたまり喘息を発症。
無理して仕事に通っていたのですが、喘息の咳がとまらず一晩中眠れない状態になりました。
会社を辞めて、ストレスがなくなり喘息も治まり、もう治ったとアルバイトを始めた矢先、
息を吸う事は出来ても吐くことができない、重症のぜんそく発作を年に3回ほど発症。
病院に来るのが後一歩遅かったら死んでいたよ、と夜間の救急外来の先生に言われたこともありました。
(この時死んでいたら、今の自分はいなかったんですね。今から考えても、ちょっと怖いです…)
3年間の闘病生活
喘息が悪化して、外で働くのは無理と言われたのが23歳の時。青春真っ盛りです。
アルバイトもできず、遊びにも行けず、家にこもって辛い毎日でした。
友達と遊びにいけば、友達の彼氏に「ぜんそくの子でしょ」と喘息を代名詞にされて、
私は喘息が名前じゃない。ちゃんとした名前があるんだよ、そんな呼び方をしないで!!とイライラしました。
それでも、将来結婚するための花嫁修業と思い、毎日一生懸命に働く家族のために料理を作ったり、
チョコレートの入ったパンや惣菜パンを作り、妹と弟に食べさせてあげたり、
お友達の誕生日にケーキを焼いて届けたり、それなりに充実していた日々が続きました。
この努力が結婚してからも、料理を作ることに困ることなく、
役立ったんだなぁ、と今では経験して良かったと思ってます。
そんな日々を3年ほど続けるうちに体力もついてきて、
家の近くでアルバイトを始めることになり、数年後、今の夫と知り合いました。
結婚して、すぐに子どもが生まれ、子どものころからの夢だったお嫁さんになれた幸せ。
子育ては大変だったけど、ママ友にも恵まれ子育てを楽しんでいました。
子育てに完璧を目指すあまり、子どもに厳しくなったり、子どもの事で母親に相談すると、
「そんな子どもの1人や2人、育てらないでどうするの?」と言われたこと。
母親は軽い冗談で言ったと思うのですが、当時子育てに行き詰っていた私にとって、子ども1人も育てらないんだ。母親には頼ってはいけないんだ。私1人でこの子を育てなくちゃいけないんだ。
夫は仕事が忙しくほとんど家にいない状態、引っ越したばかりで周りにママ友もいなくて、家に閉じこもる日々。子どもと2人で家にいるのが嫌で、実家にばかり帰っていたのですが、このままだと私の友達も、子どもの友達もできない、とアパートに帰り、
子どもの検診の際に、思い切って隣に座ったママ友に話しかけてみました。
すると意気投合♪お互いの子育ての悩みを相談したり、子どもを連れて遊びに行ったりと、
楽しい子育て時代を送ってました。
今思い返してみると、当時は子育ても大変だったけど、助けてくれるママ友、愚痴をこぼせるママ友の存在。
子どもを連れて、お弁当を持って公園に行ったり、ランチをしに行ったり、
主婦でいながら、いい感じにストレスを発散できていたからだなぁ、と思います。
うつになったきっかけは、その後別の地方に引っ越して、友達との関わりが少なくなったことから。
と、ゆがんだ考え方をして、ストレスをためていったのかもしれません。
当時夫は出張が多く、精神的に疲れていました。子どもがちょっと具合が悪くなると、
「母親なのに、しっかりしろ。子どもが具合が悪いのもわからないのか!」と責められたり…。
夫はたまたまストレスがたまっていて、言った言葉なのに、
私の考え方がゆがんで、何かひとつ文句を言われると
私すべてを否定されているようで辛かったのを覚えてます。
長々とプロフィールを読んでくださりありがとうございます^^
今はプラス思考で明るく前向き♪になっていますが、過去はマイナスオーラ全開の日々でした。
うつになって辛いけれど自分の力ではできないこともあること。
黒と白だけじゃなくて、グレーもあるんだ。
自分の考えのゆがみで世間を見ていたことに気が付きました。
もう40代、いやいやまだ40代、人生これから♪
今よりも辛いこと、沢山の波が襲ってくるかもしれないけれど、
今を大事に家族を大切して、毎日を過ごそうと思います。
明日をつまらなくするのも、楽しくするのも自分次第…
皆さんの心にも幸せが訪れるよう、祈ってます。
こころ
人付き合いは苦手、真面目すぎて頑張りすぎてしまうのが欠点でもあり、長所でもあったりします^^
1つの事にはまると他の事が見えなくなってしまう、子供のような性格です。
恥ずかしい話、自分自身うつになるまでは、偏見がありました。
メンタルクリニックに通うようになり、症状が軽いうつと言っても、
いつ来るかわからないうつの波や不安に戸惑う事もしばしばあります。
うつになり、健康に当たり前に過ごしいた日常生活の中で、見えなかったもの、
人の心や優しさや思いやり、自分がどれだけわがままで、
恵まれているのかということに気が付きました。
うつになったのは辛いけれど40代という節目を向かえて、
今までの生き方を変えるチャンス♪と思い、うつ完治を目指し日々を過ごしています。
4●年間の長い長いプロフィールです。
(本当に長いので、興味のない方はスルーしてください^^)
真面目で頑固な父親と、真面目の母親との間に4●数年前に長女として生まれました。
親の言う事を聞くおとなしい子で、人前に出るといつも母親の後ろに隠れていました。
兄弟は、3つ下の弟と、8つ下の妹がいる3人きょうだいで育ちました。
私が生まれる前、母親は2人の赤ちゃんを流産していたため、両親に大切に育てられました。
ミルクもたくさん飲み、好き嫌いもなく、すくすくと成長。
栄養のとり過ぎで、まるまる太ってました(汗…
幼稚園に上がる前は、近所の男の子と戦隊ヒーローごっこをするのが大好き。
女の子よりも男の子と一緒に遊ぶのが好き♪という活発な女の子でした。
この頃は人付き合いとか、全然気にしないで、自分の思うまま生きていたような気がします。
幼稚園に入ってからは、集団行動が苦手で、お友達の中に入っていくことができませんでした。
幼稚園では、園庭の隅でひとりで遊ぶか、誰もいないガラガラの教室の中で、
お絵かきをして遊ぶのが好き。
1人でもくもくと絵を書くことが好きなので、さみしいという気持ちもなかったし、
教室で1人でいると、園庭から先生とお友達に声をかけられて、しぶしぶ中に入っていく感じでした。
友達と遊ぶのは楽しいけれど、無理して入ろうとはしない、
今から考えてもとっても消極的な女の子でした。
母親が大切にとっておいてくれた、幼稚園時代のおたより帳です。

小学校に入っても、お友達の中に入っていくことかできず、学校は大嫌い。
転向してきた気の強い男の子にイジメのターゲットにされてしまったこと。
学校ではほとんどしゃべらないので、家ではたくさんおしゃべりするので、変わったやつと、クラスの子たちは不思議がって、からかわれてイジメの対象になったり…。
何かやられても怖くてなんにも言えず、嫌なことを言われても、
やられても、黙って自分の気持ちを押し殺していました。
別に1人でもつまらなくないもん。私は1人が好きだもん。と、
自分に暗示をかけていたような気がします。
そんなつまらない小学校生活だったけれど、一番の楽しみは大好きな祖母に会いに行くこと。
おばあちゃんにとって長女の初めての子どもだったので、私の事をとても可愛がってくれました。
弟も生まれて甘えられない私にとって、いつも笑顔でやさしく唯一甘えられる存在。
私が祖母の家で絵をかけば、居間の壁に私が書いた絵をはりまくり、
「上手だね♪近所の遊びにきた子どもも、●●ちゃんの絵を褒めていたよ♪」と自慢に話してくれてました。
辛いことがあっても、悲しいことがあっても、祖母の家に行けば癒される、そんな心地よい居場所でした。
学校の帰り道、登下校班のみんなに仲間外れにされたり、
一緒に帰ってもらえなかったり、辛いこともあったけれど、祖母の存在が救いでした。
そんなある日、祖母ががんになって入院。
30年前は、がんの治療が発達していなくて、がんと言えば不治の病です。真冬の寒い日に、電車に揺られながら祖母のお見舞いに行ったことを覚えています。当時母親に買ってもらった、真っ赤なロングブーツを履いて行きました。
「●●ちゃん、とってもかわいいブーツだね」と褒めてもらったのが、
生きている祖母と交わした最後の言葉になりました。
祖母が亡くなり、唯一の心地よい場所もなくなりました。
私も小学校3年生になり、ますますイジメは悪化。
新米の女の先生が担任だったので、生意気盛りの男の子が全然いう事を聞かず、
先生のいないときは、まさにイジメの時間。
クラスの友達も私を助けるとイジメのターゲットになると思い、見て見ぬふり。
体格の良い男の子は、私の両足を持ち、ぶんぶん振り回して、机に向かって投げ飛ばしたり、
雑巾がけをしているときに、上履きのまま顔を足蹴りされ、顔にあざを作ったり…
やんちゃな男の子たちのやりたい放題でした。
いじめられて、家に帰ると母親は私の顔にできたあざをみて、見てびっくりし、
学校に苦情の電話をかけることも少なくなかったです。
この頃死にたい、死んでいじめっこを呪い殺すんだ、みたいなことを真剣に考えてました。
その時母親に言われた言葉がひとつ、
「死ぬ勇気があるなら、なんでもできるでしょ。死ぬって怖いことなのよ」と、言われたこと。
8つか9つの子どもの頭でも、いじめっこのために死ぬなんてもったいない。何をされても我慢すればいい、悪いことをしたやつらには必ず罰があたる。私は私でいいじゃない、と思うようになりました。
そんな時にいつも助けてくれたのは、隣のクラスにいた近所のお友達です。
何も言えない私を、いつもかばってくれて、とっても嬉しかったです^^
外では何も言えない自分が嫌い
小学校低学年の頃から、自分が大嫌いでした。なんで自分が生まれてきたんだろう…。
家に帰れば、可愛い弟と妹がいるけれど、母親は兄弟ばかりかまって、自分の方は見てくれない。
そのころから常にいい子でいれば、親の愛情も独り占めできると思ってました。
嫌なことも嫌といえず、ひたすら我慢。
小学校の高学年になると、仲良しのお友達も増え、ベテランの先生に変わったおかげでイジメもなくなり、学校生活も少しずつ楽しくなりました。
この頃に感じたのは、自分の容姿に対するコンプレックス。
今振り返ってみると、いつも自信がなくて、泣きそうな顔をしていて、情緒が不安定。
家に帰って年下の近所のお友達と遊んでいるときは楽しいけれど、
同じ年頃のお友達と自分を比較して、いつも自己嫌悪してました。
中学校になって、高校生になっても、自分に彼氏ができないのは、
容姿が醜いのは、親のせいと思ってました。
社会人になって自分が変わってきた
高校時代は緊張して男の子とも話せなかったのに、専門学校、社会人になって、自分のコンプレックスもなくなり、友達も増えてきました。今一番の親友に出会ったのも、この時です。
小さなころからの夢を実現するため、親元を離れて専門学校に行き、無事就職。
好きな人もできて、休みの日には中の良い友達と食べ歩きをしたり、
青春していたな~っと思うのがこの頃です。
でも、幸せって長くは続かないんですね。
新しくやってきた上司との人間関係から、ストレスがたまり喘息を発症。
無理して仕事に通っていたのですが、喘息の咳がとまらず一晩中眠れない状態になりました。
会社を辞めて、ストレスがなくなり喘息も治まり、もう治ったとアルバイトを始めた矢先、
息を吸う事は出来ても吐くことができない、重症のぜんそく発作を年に3回ほど発症。
病院に来るのが後一歩遅かったら死んでいたよ、と夜間の救急外来の先生に言われたこともありました。
(この時死んでいたら、今の自分はいなかったんですね。今から考えても、ちょっと怖いです…)
3年間の闘病生活
喘息が悪化して、外で働くのは無理と言われたのが23歳の時。青春真っ盛りです。
アルバイトもできず、遊びにも行けず、家にこもって辛い毎日でした。
友達と遊びにいけば、友達の彼氏に「ぜんそくの子でしょ」と喘息を代名詞にされて、
私は喘息が名前じゃない。ちゃんとした名前があるんだよ、そんな呼び方をしないで!!とイライラしました。
それでも、将来結婚するための花嫁修業と思い、毎日一生懸命に働く家族のために料理を作ったり、
チョコレートの入ったパンや惣菜パンを作り、妹と弟に食べさせてあげたり、
お友達の誕生日にケーキを焼いて届けたり、それなりに充実していた日々が続きました。
この努力が結婚してからも、料理を作ることに困ることなく、
役立ったんだなぁ、と今では経験して良かったと思ってます。
そんな日々を3年ほど続けるうちに体力もついてきて、
家の近くでアルバイトを始めることになり、数年後、今の夫と知り合いました。
結婚して、すぐに子どもが生まれ、子どものころからの夢だったお嫁さんになれた幸せ。
子育ては大変だったけど、ママ友にも恵まれ子育てを楽しんでいました。
子育てに完璧を目指すあまり、子どもに厳しくなったり、子どもの事で母親に相談すると、
「そんな子どもの1人や2人、育てらないでどうするの?」と言われたこと。
母親は軽い冗談で言ったと思うのですが、当時子育てに行き詰っていた私にとって、子ども1人も育てらないんだ。母親には頼ってはいけないんだ。私1人でこの子を育てなくちゃいけないんだ。
夫は仕事が忙しくほとんど家にいない状態、引っ越したばかりで周りにママ友もいなくて、家に閉じこもる日々。子どもと2人で家にいるのが嫌で、実家にばかり帰っていたのですが、このままだと私の友達も、子どもの友達もできない、とアパートに帰り、
子どもの検診の際に、思い切って隣に座ったママ友に話しかけてみました。
すると意気投合♪お互いの子育ての悩みを相談したり、子どもを連れて遊びに行ったりと、
楽しい子育て時代を送ってました。
今思い返してみると、当時は子育ても大変だったけど、助けてくれるママ友、愚痴をこぼせるママ友の存在。
子どもを連れて、お弁当を持って公園に行ったり、ランチをしに行ったり、
主婦でいながら、いい感じにストレスを発散できていたからだなぁ、と思います。
うつになったきっかけは、その後別の地方に引っ越して、友達との関わりが少なくなったことから。
と、ゆがんだ考え方をして、ストレスをためていったのかもしれません。
当時夫は出張が多く、精神的に疲れていました。子どもがちょっと具合が悪くなると、
「母親なのに、しっかりしろ。子どもが具合が悪いのもわからないのか!」と責められたり…。
夫はたまたまストレスがたまっていて、言った言葉なのに、
私の考え方がゆがんで、何かひとつ文句を言われると
私すべてを否定されているようで辛かったのを覚えてます。
長々とプロフィールを読んでくださりありがとうございます^^
今はプラス思考で明るく前向き♪になっていますが、過去はマイナスオーラ全開の日々でした。
うつになって辛いけれど自分の力ではできないこともあること。
黒と白だけじゃなくて、グレーもあるんだ。
自分の考えのゆがみで世間を見ていたことに気が付きました。
もう40代、いやいやまだ40代、人生これから♪
今よりも辛いこと、沢山の波が襲ってくるかもしれないけれど、
今を大事に家族を大切して、毎日を過ごそうと思います。
明日をつまらなくするのも、楽しくするのも自分次第…
皆さんの心にも幸せが訪れるよう、祈ってます。
こころ
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